本記事の内容
今回は、10年以上にわたるエンジニア生活を振り返った上で、プログラミングに関する記事を書いている理由を書きます。
ハッキリ言って、長いポエムです(笑)
有益な情報は得られません。
目次
プログラミングで手にした自由
今、私は不労所得こそないものの、サラリーマンとしては、かなり自由な生活を送っています。
仕事を辞めて旅行に行く自由や、リモートワークを選ぶ自由もあります。
給料も決して悪いわけではありません。
でも、働き始めた頃に今の自由な生活を予想していたのかと言われれば、決してそんなことはありません。
私は本当に凡人でしたし、普通のサラリーマンになることを想像していました。
ただ、時代の後押しもあり、結果として自由な働き方を手に入れることができました。
どういった経緯で、今に至ったのかを説明していきたいと思います。
あらためて振り返ってみると、私は正社員として、7社も経験していました。。。
始めてPCに触った中学生時代(1995年)
これは記憶の片隅にしか残ってないのですが、1995年にも関わらず、うちの公立中学校には、なぜかPCがありました。
その時にPCを触ったことが、始めて経験するプログラミング?だったのかもしれません。
基本的には「一太郎」というソフトを触って、タイピングや風船のゲームをやっていました。
あとは、擬似的なコードを書いた記憶もあります。
水槽で魚がピコピコと動いていました。
ほとんどの生徒がそれを理解できていませんでしたが、中にはプログラミングを理解している人もいました。
この当時にやったことは、記憶が曖昧でほとんど覚えていませんが、挫折感だけは残っています。
VBとC言語を勉強した大学時代(2000年ぐらい)
私は大学時代に農学部に所属していたのですが、2単位だけITに関するものがあり、VBという言語を勉強しました。
ところが、私にとってプログラミングはチンプンカンプンでした。
先生とアシスタントの人がいるにも関わらず、全くわかりません。
「int」、「float」などの型もなぜあるのか、全く理解できませんでした。
特に難しかったのは「for」と「関数」だった記憶があります。
また、内容は楽しそうなweb業界とは違って、情報処理に偏っていました。
大学の講義なので、当然と言えば当然です。
「モンテカルロ法」を習って、「なんのこっちゃ?」と思った記憶があります。
基本情報処理のアルゴリズムに出てくる問題で、最初に学ぶ内容としては、難しい部類に入ります。
一年目は単位を落としました。
それが必須でなければ二度と勉強するはずもなかったのですが、必須なので逃げることはできません。
二年目も落として、ようやく単位が取れたのは三年目でした。
ホントに泣きそうだった記憶があります。
ちなみに、C言語の方は一般教養で、ただの選択だったので、最初の1、2回だけ授業に出てから単位の取得は諦めました(笑)
今、考えてみると、当時の勉強方法は、楽しみの欠片もありませんでした。
世の中は、まだインターネットが出たばかりで、いくつかのHPがあるぐらいです。
「PHP」もそこまで流行っていた時代ではなく、Webという産業が、まだ小さかったように思います。
「退屈な情報処理の勉強をすること」がIT業界への入口でした。
そこで、多くの人が挫折したと思います。
この時に、IT業界の可能性に気付けていれば、私の未来も大幅に変わっていたとは思いますが、私には先見の明はありませんでした。
今、思えば、大学時代にC言語もVBも一生懸命、勉強しておけばよかったです。
派遣会社でLAMP研修(2006年)
当時の時代背景
「webは面白い」と思うようになったのが「web2.0」というキーワードが流行り始めた頃です。
当時、「mixi」が大人気だった頃で、web業界はすごい楽しそうに見えました。
それまでは、嫌な思い出しかないプログラミングのことはサッパリ忘れていましたが、改めて興味を持つようになりました。
私は大学の卒業後に営業をやっていたのですが、非常に退屈だったので、1年ちょっとで辞めてしまいました。
そして、次こそはやり甲斐のある仕事をしたいと思っていた時に、「web2.0」の波が来ていました。
それで、「未経験のエンジニアを採用」という広告に応募して、受かったので入社することにしました。
私がエンジニアになろうとしたのは、本当に偶然の産物です。
わかりづらいプログラミング研修
入社してから「LAMP研修」というものを一ヶ月間、受けました。
LAMP(ランプ)とは、Linux、Apache、MySQL、PHPの頭文字をとったものです。
LAMPなんて言葉も、今では使わなくなりましたね。。。
初心者のための研修のはずでしたが、同期はすでに基本情報処理を取得しているような人達が多く、非常に辛かったです。
LAMPの全てを一ヶ月で習うのですから、量が半端ではありません。
まず最初に、「HTMLは独学でやってくれ」と言われました。
HTMLは知っていて当たり前ということです。
また、Linuxは、CUI環境(コマンドプロンプト)だったので、全く理解できませんでした。
エディタは、勿論、「vim」です。
今、考えると決して優しい教え方だったとは思えません。
なぜならば、Linuxを習うにしろ、最初はGUI、グラフィカルな環境でやった方がわかりやすいはずです。
「mkdir」というコマンドひとつにしてもそうです。
グラフィカルな環境でやれば、「mkdir」と「windowsでフォルダを作ること」は同じだと理解できます。
でも、CUI環境だったので、「mkdir」、「mv」、「touch」というコマンドの意味もなかなか理解できませんでした。
「vim」なんかも、最初の段階で学ぶ必要は全くありません。
その当時に、「ドットインストール」や「Progate」というサービスがあれば、かなり楽だったし、多くの人がエンジニアになっていたように思えます。
とは言え、この研修をキッカケとしてエンジニアになれたので、感謝はしています。
派遣として、大阪で働いていた時代
会社の倒産
問題は研修だけではありませんでした。
この会社は随分と変わった会社で、9月、10月、11月、12月と、毎月、10人づつぐらいの人を雇っていました。
そして、新たに雇われた人達の多くは、会社で勉強をしているだけです。
特定派遣の会社だったので、研修した社員を他社に送りださないと、赤字がたまる一方です。
「この会社は大丈夫だろうか?」と思っていたところ、半年後には倒産しました。
「ど、どうしよう?」とビビっていましたが、なんとか他社に買収されたので、助かりました。
でも、半年たっても、私はずっと社内ニートのままでした。
「このままでは、いつまで経ってもエンジニアにはなれない。」
「どうしたらエンジニアになれるんだろう?」とずっと思い悩んでいました。
資格の勉強
何度か面接に行ったものの、なかなか雇って貰えなかったので「社内ニート」の時代は半年ぐらい続きました。
それで、このままではマズいと思い、実用的に見えたLPICの資格を勉強しました。
これだけでも、多少のハッタリはきくので、よかったように思えます。
拾ってくれた先輩のお陰で社内ニートを脱出
当時の自分は、お世辞にも穏やかな性格とは言えず、向上心と反骨心の塊でした。
私のことを嫌っている人も多かったとは思いますが、たまたま「私の向上心」を好いてくれる人がいて、彼がすでに出向している派遣先に私を呼んでくれました。
それは、本当に有り難い出来事でした。
その現場では、大した成果は出せなかったし、むしろ足を引っ張ってしまった気がします。
でも、そこでの経験を積んだあとは、他の会社にも出向しやすくなり、ようやくエンジニアとしてのキャリアが始まりました。
35歳定年説を意識し続ける日々
エンジニアとしてスタート地点には立ったものの、まだまだ不安なことは沢山ありました。
そのうちの一つが、プログラマ35歳定年説です。
これは当時の常識で、「プログラマは35歳になったら、プロジェクトマネージャーにならなければいけない。そうでないと年収は低いままだろう」という内容でした。
ソースコードを書く作業は(いくらでもいる)若い人達に任せて、もっと難しいプロジェクトマネージャーを目指せということです。
ソースコードを書くことにおいて、なぜ若い人と経験ある人の間で成果に差がつかなかったのかは不思議ですが、実際に成果に差があっても人月商売が一般的だったので、区別がつかなかっただけかもしれません。
いずれにせよ、27歳という人より遅れた時期にエンジニアを始めた私にとっては、プログラマ35歳定年説は大きなプレッシャーでした。
そういった先の見えない不安の中で、私は無我夢中になって設計、プログラミング、インフラ、プロジェクトマネージメントなど、都度、必要とされることをやってきました。
それでも、年収はほとんど上がりませんでした。
だいたい、400万ぐらいだったと思います。
上京しました(2011年)
このまま、大阪や京都で、常駐先の会社で仕事をしていては将来がないと思い始め、東京の会社へ就職することにしました。
転職活動は困難でしたが、dodaさんが「東京の会社が、大阪で人材募集をするイベント」をやっていて、運良く採用されました。
そうして、晴れて東京に行くことができました。
仕事は、それなりにやり甲斐のあるものでしたが、年収は430万ぐらいだったので、決して夢のある数字とは言えませんでした。
また、社内に仕事が減ってきたので、一年後には転職することにしました。
「B to C」を手掛けている会社は、社内に仕事がなくなると、社員に冷たくなるんだなと思った記憶があります。
新しい転職先は大手のゲーム会社で、この頃に、私も含めて多くのエンジニアの年収が上がり始めたように思います。
それまでは、「エンジニアが人気の職種」なんて話は、聞いたことがありませんでした。
2012年ぐらいを境にして、状況がかわり始めました。
ここで数年間、働いたあとで、再び、社内の仕事が減ってきたので、転職をすることにしました。
フィリピンで働きました(2015年)
フィリピンに関心を持ったキッカケはオンライン英会話です。
大体、4年間ぐらい英会話をしていたので、フィリピンに行ってみたいと思うようになりました。
また、エンジニアのキャリアとしても、「プログラミングだけで食べていくこと」に不安があったので、英語力も身に着けたいと考えていました。
そうして、よい転職先が決まったので、セブ島で働くことなりました。
英語も身についたところで、ようやく「将来の不安」は減ってきたように思います。
自由な生活を手に入れたい人へのメッセージ
ここまで、長い文章を読んで下さって、ありがうございます。
何で、このようなポエムを書いたのかと言えば、ここまでの道のりは、決して平坦ではなかったことを伝えたかったからです。
あらためて振り返ってみると、私は正社員として、8社も経験していました。
派遣として出向した会社も含めると、全部で12社を経験しています。
会社の倒産は、2回、経験しました。
35歳定年説も乗り越えて、ようやく今があります。
多くの人がエンジニアを辞めていったのは、私と同様に、こういった辛い体験をした人が多いからです。
教育の質も良くなかったので、今、エンジニアの数が不足しているのは当然の結果です。
こうやって思い返してみると、特別に才能があるわけでもない私のような凡人が、これだけの困難を乗り越えられたのは、非常にラッキーだったと思います。
最近になって、IT 業界の潮流が変わり始めています。
「Progate」や「ドットインストール」のような初心者向けのサービスができました。
授業の質の良し悪しは別にして、プログラミングスクールも多くあります。
以前に比べると、プログラミングの初心者は、エンジニアになりやすくなったと思います。
さらに、職場環境もよくなり、エンジニアの給料も上昇傾向にあります。
当面の間は、エンジニアの将来は明るいように見えます。
色々な困難が待ち受けているとは思いますが、みなさんがその壁を乗り越えて、自由な生活を手に入れられることを祈っています。
その際に、このブログが何らかの参考になればと思います^^
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