記事の内容
この記事では、「ある明治人の記録」の紹介をします。
この本は、明治時代生まれの柴五郎さんという会津出身の方によって書かれた記録です。
現代日本の歴史は、戊辰戦争の勝者側によって作られた歴史です。
この本は、戊辰戦争の敗者側によって記録された記録です。
当時の歴史を知る上で、貴重な記録だと言えます。
目次
幕末の世情
1810年頃から、大災害だったり外国船が訪れたせいで、治安が悪くなっていたようです。
されど余が生まれたる安政六年(一八五九年)を去ること三、四十年の以前より、しばしば大飢饉、百姓一揆、浪人騒擾のほか、外国の侵攻、強要、暴行などあいつぎ、世相険悪となり
ロシア、イギリス、フランス、アメリカが日本に来ては面倒事を起こしていたそうです。
そして、中国が植民地にされたことは、江戸幕府に相当な衝撃を与えたようです。
これに加え、東洋にたいする欧米諸国の侵略はげしく、北方よりロシア、南方よりイギリス、フランス、また東よりアメリカ、あいつぎて軍艦来航し開港を要求す、商船また各地に寄港して狼藉あり
アヘン戦争によりて清国敗北の憂目を見て列強の植民地化の勢い、死屍に狼群の集い喰うがごとして報いたって、幕府はもとより、各藩首脳の憂慮深刻なり。
会津の武士はお金の扱いに厳しかった
会津の子供は、お金を手にすることがなかったそうです。
「銭入れ袋」のまま商人に渡していたんですね。
金銭につきても、きびしき心得ありて、自ら手にすることを許されず。
年に一回盛夏のころ、鎮守諏訪神社の祭礼の日にかぎり銭を使うことを許され、白玉の買い食いもできたりとはいえ、銭の支払いは自ら勘定して渡すを禁ぜらる。
かならず銭入れのまま商人に渡し、彼をして取らしむる習慣なり。
白玉六個入り一箱四文、豆鉄砲、お面など、それぞれ十文ほどなりしと記憶す。
薩摩と長州は江戸で放火や殺人をおこなっていた
1868年、徳川慶喜によって大政奉還がなされたものの、薩摩藩と長州藩はそれに納得がいかず、武力侵攻をしようと試みます。
その際にキッカケを作るために、江戸で挑発行為を行いました。
その時の記録です。
薩長の浪士、江戸をはじめ各地にて放火殺人をおこない、世に不安の気をあおり、徳川の威信をきずつけ、討会の気勢をたかめんとする謀りごとなりと伝えらる。
7歳の娘までもが自害
武家の女性は、7歳の子供ですら自害の準備をしていた。
あまりにも悲しい話です。
男は生きて、汚名挽回せよと言っていますね。
男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。
わずか7歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不憫にして知らず。
ある一家は9人とも自殺。
木村家に嫁したるかよ姉は、負傷して動けぬ夫君をはじめ一家ことごとく自刃す。
薩長軍は軍人だけでなく一般人にも乱暴した
薩長軍は、敵の武士だけでなく一般人にも乱暴したようです。
でも、その歴史は消え去っているので、無念みたいですね。
今でも、会津地方の人は、山口県と鹿児島県の人達を嫌いだという話を聞いたことがありますが、その原因はこの話でしょう。
会津藩を封建制護持の元凶のごとく伝え、薩長のみを救世の軍と讃え、会津戦争においては、会津の百姓、町民は薩長軍を歓迎、これに協力せりととくものあれども、史実を誤ること甚だしきものというべし。
百姓、町民に加えたる暴虐の拳、全東北に及びたること多くの記録あれど故意に抹殺されたることは不満に耐えざることなり。
町人、百姓の女まで殺す下郎どもなり。道々殺されたる女を見れば、百姓どもさえ、ひそかに蓆(むしろ)をかけて逃げかくるるほどなり。
また城下にありし百姓、町人、何の科なきにもかかわらず家を焼かれ、財を奪われ、強殺強姦の憂目をみたること、痛恨の極みなり
会津藩は石高を大幅に減らされた
会津藩は67万石から3万石(実収は7千石)の地に移動したそうです。
可哀相な話です。
明治政府がいかに会津藩を恨んでいたかがわかります。
今回陸奥の国、旧南部藩の一部を割き、下北半島の火山灰地に移封され、わずか三万石を賜う。
まことに厳しき処遇なれど、藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託せり
されど新領地は半歳雪におおわれたる痩地にて実収わずか7千石にすぎず、とうてい藩士一同を養うにたらざることを、このときだれ一人知るものなし
はばからず申せば、この様はお家再興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。
挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。
武士の意地で犬を食べる話
武士の心構えは凄まじいものだと思わされる話です。
会津の人々にとっては、明治政府(薩長軍)が賊軍でした。
ただ、歴史では会津藩が賊軍です。
その日より毎日犬の肉を喰らう。
初めは美味しと感じたるも、調味料なく、塩にて煮たるばかりなり。
余によりては、これ副食物ならず、主食不足の補いなれば、無理して喰らえども、ついに喉につかえて通らず。
口中に含みたるまま吐気を催すまでになれり。
この様を見て父上余を叱る。
「武士の子たることを忘れしか。
戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。
ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。
会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるる、のちの世までの恥辱なり。
ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」
大久保と西郷が亡くなって大喜び
大久保利通と西郷隆盛と言えば、偉人で有名ですが、会津人にとっては喜ばしい話だったようです。
また、西南戦争では薩摩をやっつけたことを誇っています。
西南戦争で、西郷隆盛は亡くなっています。
1868年の会津戦争では、薩長の政府軍が会津に攻め込みました。
1877年の西南戦争では、会津などの政府軍が薩摩に攻め込みました。
歴史とは、なんとも皮肉なものです。
山川大蔵、改名して山川浩もまた陸軍中佐(後に少将、貴族院議員)として熊本県八代に上陸し、薩軍の退路を断ち、敗残の薩軍を日向路に追い込めたり。
かくて同郷、同藩、苦境をともにせるもの相あつまりて雪辱の戦いに赴く、まことに快挙なり。
千万言を費やすとも、この喜びを語りつくすこと能わず。
余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局、自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。
まとめ
この記事に書いた内容は、以下の本から抜粋しました。
我々が教科書で学ぶ日本の歴史観とは大きく異なりますが、非常に興味深い内容ですね。
▼ この記事に興味を持った人は、是非、この本を読んでみて下さい^^
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