最近、「外国人の若い女の子はフィリピンで住みやすい。子連れでも冷遇されない」というツイートを見た。
「それは女の子でけではなく、オッサンも同じです」と思わずうなずいてしまった。
フィリピンは暖かみのある社会だなと感じることは、私もちょくちょくある。
先日、フェイスシールドをセブンイレブンで購入してから、その着け方に苦戦していたら、近くにいた店員でもなんでもない若い女性が全てをセットアップしてくれた。
めっちゃ優しい。。。(笑)
こんなのって、日本ではありえないだろう。
フィリピンは本当に寛容で住みやすい国だ。
そしてふと、「なぜフィリピンは住みやすいと感じるんだろう?」という疑問が頭をよぎった。
フィリピンでの不満を書き出すと、水道水は飲めない、電気代は高い、ネットは遅い、家に虫が出る、食事は不味いといった感じでキリがない。
要するに嫌な所はたくさんある。
さらに犯罪も多い。
殺人件数は年間で8,000件なので、日本の20倍ぐらいだ。
その他の軽犯罪はフィリピンの統計がいい加減なので単純に比較することはできないが、フィリピンの方が日本に比べて圧倒的に多いことは間違いないだろう。
なにせ自分の周りだけでも、フィリピンで窃盗に会った人達が多くいる。
道で歩いていたら携帯をすられた、ネックレスをいきなり首からちぎられて持っていかれた、iPhoneを見ていたらひったくられた、そういった話は残念ながらよく聞く話だ。
決して誇張しているわけではない。
こうやって良い面と悪い面を総合して考えると、治安やインフラだけが「住みやすい基準」ではないのかもしれない。
では、ほかの基準とは何なのか。
それが、「寛容性」なのかもしれない。
「寛容性」、たったの三文字だけど、非常に幅広い意味を持つあいまいな言葉だ。
最近、「日本には寛容性が欠けている」などとよく言われている。
「子育てに厳しい」「満員電車で余裕がない」「セクハラ」「パワハラ」「過労死」といったキーワードをニュースで目にする日は多い。
それは、やはり寛容性が無いせいだろう。
職務質問なんかも「寛容性の無さ」の象徴だ。
なんせ、「怪しそうに見える」というだけで、何もしていなのに警察に持ち物チェックをされるのだ。
他の国では人権侵害以外のなにものでもない。
誰の幸せのために、社会がこんなにも不寛容になっているんだろう?
よく見るキーワードから想像するに、年齢や性別に関係なく、ほとんどの人が日本社会の不寛容性に苦しめられているように見える。
男性は言うまでもないし、働く女性や子育てをしている女性も不寛容性に苦しめられていそうだ。
唯一、不寛容性から開放されている属性は、「20代の独身女性」ぐらいだろうか?
幸運なことに、誰もが20代の独身女性に対しては優しい。
ところで、日本社会は何故ここまで不寛容になってしまったんだろうか?
その理由は、「男女平等社会」を声高に叫んだからだろう。
10数年前まで、フェミニズムの女性からは、成功している男性達が非常に輝いているように見えたようだ。
そのため、フェミニズムの女性は「女性にも成功する機会を与えるべきだ」「男女は平等であるべきだ」と、声高に叫んだ。
そしてその声に従って、日本は男女平等な社会を目指す方向に舵を切った。
女性を男性と同様に扱って仕事をしようという流れになった。
でも残念ながら、その現実はフェミニズムの女性達が思っているようなものではなかった。。。
どういうことか?
日本の男性社会とは、「不寛容」の塊だったのだ。
パワハラ、セクハラは当たり前で、男性社会でそれが問題になることはない。
満員電車で我慢するのも当然のことだし、過労死すら問題になることはなかったのだ。
その中で勝ち抜いた男性は、女性からは輝いて見えていたのかもしれない。
でも、それは全体から見れば0.1%ぐらいの上澄みであって、決して全体を表していたわけではなかったのだ。
そのような男性社会に、「男女平等」という掛け声の元で女性を放り込んだのだ。
男女平等ならば、女性へのパワハラも当然のことになる。
女性が過労死をしても問題にはならない。
こういった結果になるのは、当たり前のことだろう。
「朱に交われば赤くなる」というのは有名な諺だが、不寛容な男性社会に女性が入れば、女性が不寛容になるのも当然のことだ。
こうして不寛容さはどこまでも伝染していく。
これが、日本が不寛容社会になった理由だろう。
日本人の不寛容性というか理不尽さは、封建社会、武士道、軍人の世界観からきている。
150年ぐらい前までは、管理職にいる人が何か問題を起こせば、それだけで切腹をさせられていた。
80年ぐらい前は、戦争に勝つために若者が神風アタックをさせられていた。
日本は男性に対して非常に厳しい国だったのだ。
もしかしたら、世界一、男性に厳しい国かもしれない。
そして伝統は、そう簡単に変わるものではない。
ということは、今でも社会が日本人男性に対して厳しいのもうなずける話だ。
日本人は「不寛容性」を男性社会だけに留めておいて、決してそれを女性に伝染させるべきではなかったと、私は強く思う。
男性社会は「不寛容で理不尽」、女性社会は「平和」でよかったんじゃないだろうか?
さて、そろそろ話をフィリピンに戻そう。
フィリピン社会は寛容性であふれている。
子育てには優しい。
フィリピンは大家族主義なので、祖母や親戚も一緒になって子育てをしてくれる。
パワハラはあまりない。
もちろん人間だから、多少のパワハラはある。
特に偉そうな公務員が、少額の賄賂を要求するのはよく聞く話だ。
でも、ネチネチと部下をイジメるようなパワハラはあまり聞かない。
なぜなら、へたに部下にパワハラをしすぎると殺される可能性すらあるからだ。
武士道精神や「御恩と奉公」という概念がない国では、上司と言えども、あまり威張ることはできない。
セクハラもあまりない。
仮に男性がセクハラをしても、女性はそれを気にしない(笑)
「太ったね」「可愛いね」「彼氏いるん?」といった質問はセクハラでもなんでもない。
時間には寛容(ルーズ)だ。
フィリピン時間といえば、一時間から二時間ていどの遅刻を意味する。
労働時間に対してもキッチリしていて、彼らが残業をすることはあまりない。
飲食店の閉店が20時だったとしたら、19:50分ぐらいには彼らは帰宅の準備を始めている。
なので、19時50分頃にはテイクアウトのメニューですら、注文をすることはできない。
なぜならば、店員が20時ちょっと過ぎには帰りたいからだ。
フィリピン社会には厳しさがない。
それは、女性社会が元になっているからかもしれない。
女性が働き、女性が子育てをする。
どこまでいっても女性社会だ。
こう書いていると、寛容な社会にデメリットはないの?と疑問に思う人もいるだろう。
もちろんデメリットはある。
フィリピンは、社会の発達が遅れていることは間違いないだろう。
医療は遅れているし、車を自国で作ることもできない。
科学技術という点では、フィリピンは日本に比べて大幅に劣っている。
「何らかの厳しさ」や「理不尽さ」がなければ、世の中はなかなか進歩しないんだろう。
今の時代、暮らしていくだけなら、どうとでもなってしまう。
でも、一歩上を目指すならば、制約が必要なのは自明の理だ。
となれば、結局、この2つの世界のどっちを選択するのかという話になりそうだ。
- 科学力が発展していく、不寛容と理不尽さが多い社会
- あまり発展を目指さない、寛容性にあふれた社会
このどちらを目指すのかは、日本人の選択に委ねられている。
私は、多少は不便でもいいので、寛容性にあふれた社会に住みたいと思っている。
願わくば、多くの日本人にも考えて欲しい問題だ。