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フィリピンに観光や英語留学に行きたい人のために、私の経験を元にして書いた本です^^

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物語 フィリピンの歴史―「盗まれた楽園」と抵抗の500年のレビュー【書評】

更新日:

フィリピンには、なぜ貧困がはびこっているのか?
サントニーニョの起源はいつか?
スペインやアメリカのフィリピン支配は、どのようなものだったのか?
日本軍がアメリカ領フィリピンに侵攻した時、どのような状況だったのか?
フィリピンの近代史は、どうなっているのか?

こういった事を少しでも知りたい人にオススメの本です。
フィリピンの悲しい歴史がよくわかります。


フィリピンの奴隷化

大半のスペイン文書は、フィリピン人の奴隷化をいかにキリスト教的な理想論で覆い隠すかに 全力を注いでいる。
しかし、ラス・カサスの『陳述」を一つの尺度にしたとき、スペイン人がフィリピンでしたことは、インディアスのスペイン人と本質的に変わらず、彼らがフィリピンでもやはり、力ずくで人民を奴隷化し、フィリピン諸島を丸ごと「盗んでしまった」ことが、分かってくる。
その間には当然、経済的奴隷化のほかに、「精神の奴隷化」現象も起きた。
アメリカ合衆国のフィリビン植民地化は、それを基盤にしたもので、「精神の奴隷化」を助長し、利用することはあっても、フィリピン人をそれから解放することはなかった。

経済的な奴隷化だけでなく、精神の奴隷化についても触れています。
これは今の日本にも当てはまる気がします。

フィリピンとマゼランの出会い

これが1521年の出来事です。

フマボンはまだ彼の権威に従わない首長を打倒するのに、マゼランが助勢するよう要望した。イスラムからキリスト教への改宗は、一種の取引としても成立した。
おそらくは将来の貿易も計算されていたに違いない。
マゼランのセブ到着一週間後の四月一四日、首長は洗礼を受け、スペイン王にちなんでカルロスという洗礼名を貰った。

後にフマボンの妻も受洗した。
受洗者の合計は男五〇〇人、女三〇〇人に達したという。
このときフマボンの妻はマゼランからサント・ニーニョ(おさなどイエス)の像を贈られた。

その後、マゼランはマクタン島にてラプラプと戦い、命を落とします。
マゼランはフマボンの味方をして、ラプラプと戦ったようです。

徴税の始まり

1571年に、スペインによってフィリピンの徴税が始まりました。
これさえなければ、フィリピンはずっと平和な国だったことでしょう。

そこでレガスピは、フィリピン占領に功労のあったスペイン人に一定区域内の原住民の管理をまかせ、貢税の徴収とキリスト教の布教を担当させることにした。
エンコミエンダ制度と呼ばれるものがそれである。

エンコミエンダ(encomienda)とは、「委託されたもの」の意で、土地ではなく、あくまで人を指した。
この制度はハイチ、キューバなどで始まり、次いでメキシコ、ペルーなどで広範に実施されてきたたとえば、金を産出しなかったメキシコで、スペイン人は土地と原住民の労働を報償として要求した。
彼らはアステカ人が持っていた農園や鉱山を奪い、征服に抵抗した原住民奴隷として使い捨てにした。
スペイン人はこれでも満足しなかったため、メキシコの制圧者コルテスは仕方なくエンコミエンダ制を採用した。

エンコミエンダには王室、個人、教会に所属する三つのタイプがあった。
フィリピンにおける最初のエンコミエンダは、一五七一年一月一六日付で、セブ、パナイ、マニラの三地域で同時に割り当てられている。

秀吉とスペインの関係

スペインを悩ませた倭寇と秀吉

16世紀に入ってからか、あるいはそれ以前から、倭寇として知られる日本の海賊がルソン島北部に根拠地を築いていた。頭目はタイフサといい、勢力約1000人。
現在のカガヤン州のカガヤン海岸にとりつき、11隻の武装船を浮かべて活動していたという。 スペイン軍は北部ルソシンを平定した後も、倭寇に手を焼き、ついに1582年ごろ大攻勢をかけて倭寇を敗走させたという報告がある。

国内統一の勢いを駆って、フィリピン侵攻を企てた豊臣秀吉も、スペイン総督府の脅威であった。
秀吉は1592年5月29日、原田孫七郎にダスマリニャス総督あての書簡を届けさせた。
同書簡は、「2ヵ月以内に大使を送れ。さもなければ大軍を差し向ける」という内容であった。
総督は、土産と一緒に親書を届けさせた。
手紙には、「日本使節の位が低く、秀吉の書いたものか、使節本人が書いた文章かの区別がつかず、日本語の読解も十分でではない。
日本にはスペイン人イエズス会士が行っているので、完全な訳文をつけてもらいたい」などと書かれていた

これは総督の時間かせぎで、スペイン側の資料によると、秀吉の動静は、「毎日のように」マニラに入ってきており、十分な情報を得ていた。
しかし、秀吉軍の侵攻に備えて、マニラの防衛を固める一方、マニラ在住の日本人に対する無用な刺激を避ける政策をとった。
秀吉は朝鮮出兵で忙しく、そのうち死亡(1598年)したため、スペイン側はことなきを得た。

フィリピン経済の事を無視していたスペインとアメリカ

ガレオン貿易の流した最大の害毒は、おそらく人々が座っていれば莫大な利益のあがる商売のうまみに酔いしれ、一八一五年までの二五〇年もの間、植民地経済を全く顧みなかったことにあるのではないか。

スペイン人は、フィリピンの経済発展に継続的な興味を示さなかった。
西欧近代の基礎をつく家内工業や製造業、人材育成には見向きもしなかった。
この傾向は、アメリカ期にも引き継がれ、フィリピンはアメリカ市場に頼りきる単一産品経済を押しつけられた。
たとえガレオン貿易が中継ぎ貿易であったとしても、もしフィリピンに工業化の種が描かれていたとしたら、その後のフィリピンの発展は、まるで違ったものになっていたであろう。
楽園は盗まれたのである。

キリスト教の布教

一六世紀にフィリピンにやってきたカトリック修道士たちの特徴は、彼らが「野蛮人」の集団文明の光の中に導きだす、という恐るべき固い信念を持っていたことである。
したがって原住民の心を霊的に征服することは、彼らの任務だと考えた。
ここから修道士たちは、原住民に対し「霊的主権」(spiritual sovereignty)を主張したのである。

レガスピによると、原住民は「言われたことや、力で押しつけられたものを簡単に信じてしまう傾向を持っていた。
メキシコ同様、この原住民の柔和な性格が大いに利用された。

初期の修道士たちは、原住民の偶像を集めて破壊したり、葬式での大宴会を禁止するなど、原住民のキリスト教徒化を熱心に進めた。

厳しい徴税を行っていた

スペイン人がフィリピンに来なければ、フィリピンには飢餓なんて存在していませんでした。

サラヤ司教はスペイン行政の末端である教会と原住民との関係に鋭い観察を行っていた。

一五八三年には、「国王と新大陸枢機院への覚書」で、フィリピン原住民社会の経済的混乱の原因がスペイン支配にあったことを指摘している。
同司教によれば、スペイン人が最初に到着したとき、フィリピン諸島は農産物、野生動物に溢れていたが、スペイン人が貨幣経済を導入してから物資の欠乏が生じたという。
農民は農繁期に鉱山にかりだされ、そのため飢饉が起きた。
穀倉のパンパンガ州ルバオのエンコミエンダだけで死者は一〇〇〇人を超えたという。
サラサール司教は帆船の漕ぎ手にされたポリスタが、ひどい労働のため死亡するか山に逃亡し、農作業が行われていないと書いている。
知事はインディアンに商売を禁止し、収穫時にコメを彼らからすべて買い上げる。
それを端境期に販売して、莫大な利益をあげるためであるともいう。

「したがってインディアンたちは、スペインが来たのは彼らを征服し、貢税を徴収するためだとと原住民は受け取っている。
彼らは反乱が起こせるときには反乱し、実際、戦争にも訴えている」とスペイン人の抑圧に対する原住民の反応を、新大陸枢機院に訴えたのだ。

フィリピン人は疲弊していった

聖職者が聞いてあきれる話です。

一八世紀後半のフィリピン社会は、王制と教会のつくりだす矛盾のため、ほとんど身動きできなくなっていた。
異教徒の改宗事業を手がけ、獲得した信徒集団と広大な教会領やガレオン貿易でつくりだされた教会財産を楯に、修道士たちは精神界のことに限らず、地方行政、政治、治安維持、通商など地方における独裁的権限を握っていた。
植民地政府にとって、それは既得権であり、原住民、メスティーツの教区司祭、司教からも奪われてはならないものであった。
「未開で「野蛮な異教徒」にキリストの福音を伝える聖なる企ては、世俗的な教会財産と権力闘争によって完全に方向を見失っていた。

1744年から85年間も続いた反乱

85年間も戦い続けたフィリピン人達がいたことにはビックリしました。
スゴい話です。

しかし、ダゴホイ事件に限り、最終的な決着がつくのには、なんと八五年もかかったのである。
とすれば、これはコンスタンティーノが言う通りフィリピン原住民の反乱の中でも、最も成功した反乱であり、原住民は「政教一致」の迫害に対抗して、最も長期間「スペインから独立を維持した」ことにもなる。

反乱は一七四四年、ビサヤ諸島の一つ、ボホール島で起こった。
反乱の中心人物フランシス・ダゴイは、同島イナバガンの町長であった。
イエズス会のガスパーモラレス神父は、土地の警官であったダブホイの弟に異教徒の逮捕を命じた。
しかし、弟は異教徒との決闘のすえ殺された。
モラレス神父が決闘による死者の埋葬を拒否したため、兄ダゴホイを支持する三〇〇〇人のボホール人が決起した。
このような大群衆が集まったのは、日ごろ彼らが教会による「おびただしい不正と圧制の被害者であることを痛感し」、大きな不満を持っていたことを示している。
反乱軍は一月二四日、イタリア人イエズス会士とモラレス神父を殺して山に立て籠った。
入植地には堅固なが築かれ、内部では計画的な食糧生産が行われた。

ダゴホイ軍の掃討を図ったセブ知事は、反乱軍の味方をする始末であった。
ダゴホイ自身は生死不明のまま、二〇年以上も反乱軍との睨み合いが続いた。

アメリカのフィリピン強奪

アメリカとスペインとの戦争時の話です。
結果として、アメリカはフィリピンとの約束を反故にしました。

デューイは「アメリカはフィリピンをスペインから解放するためにやってきた。
わが国は領土、国庫収入および自然資源が豊かであり、植民地を必要としていない。
フィリピン独立の承認について、あなたが疑うべき理由はなにもない」と主張した。

しかし、アギナルドは文書化問題をこれで終わらせなかった。
次にデューイと会見した時、アギナルドは「米国政府はフィリピンの独立を認めないのではないか、と香港在住フィリピン人が言っている」と遠慮勝ちに、問題をむし返した。
デューイは再び、米国がフィリピンの独立を認めることには、全く問題がなく、アメリカ人の口頭による保証は、スペイン人のビアクナバト文書による保証より、強力で取消し不能なものだと回答した。

フィリピン人の虐殺

アメリカ人は、10歳以上の男を殺すなどの残虐行為を行っていました。

その報復として「捕虜は要らない。殺し尽くし、焼き尽くせ。
一○歳以上の男はすべて殺せ」という軍命令がでた。
虐殺や残虐行為は、サマール島に限定されていたわけではない。
それはマニラ首都圏でも、日常的に起こっていた。
水責めを含む容赦ない拷問や、

ジョーンズ法について

1916年に、アメリカでジョーンズ法が制定されました。
そして、1932年にHHC法案ができました。
それから1934年にTM法案が制定され、1946年にフィリピンの独立が決まりました。

ケソンは、ワシントン常駐代表として、一九一六年に「ジョーンズ法」を手に入れるという大手柄をたてた。
この重要さは、米国議会が初めてフィリピン独立に、法的基礎を与えたことにある。

この代表団にとって、フィリピン独立に対する米国の空気が、このころまでにかなり好転していたことは幸運であった。
フィリピン分離論が米国側からでていたからである。
その理由は、フィリピンからの輸入によって、米国の砂糖、タバコ産業が圧迫されていたこと、また低賃金で働くフィリピン人労働者の流入を労働界が恐れていたことなどであった。
米議会の上下両院は、フィリピン自治領政府成立一〇年後に独立を認めることを骨子として

ジョーンズ法案は、一部ではバカにされていた。
そら、そうですよね。
10数年前に、アメリカに騙されたばかりなんですから。

「ジョーンズ法」を歓迎したマニラの空気は、アメリカの時代の到来を告げていた。
"太っちよりのタフトに人気が集まり、「ジョーンズ法」こそ米国の誠実さの証だと受け取られた。
まだ街には米国一辺倒を冷笑する「フィリピン愛国主義」が残っており、「ジョーンズ法」を真に受ける人たちは、サホネス (sa+jones, 「ジョーンズ法」支持者、というタガログ語による合成語)と呼ばれ、けなされていた。
しかし、時代は急速にアメリカ文化の潮流に押し流されつつあった。
米国は一八九八年のフィリピン占領以来、すべての教育を英語で行ってきた。
それが二〇年ほどの間に、徐々に効いてきたのである。

戦前のダバオには多くの日本人がいました

戦前の日比関係で最も注目されるのは日本商業本ミンダナオ島ダバオ周辺のジャングル切り開き、世界一の麻(アバカ生産センターにつくりあげた(ラルフヘイデン)である。
しかし、そのあまりにも目ざましい成功ため、マニラのマスコミから「日本はダバオクオをつくっている」と集中的非難浴びることにもなった。
ダバオクオとは1932年成立たマンチュウクオ満州国)もじったもので「日本の領土的野心」がフィリピン人警戒せた。

日本人のダバオ開拓はベンゲット道路の建設に従事した契約労働者のうち約180人が1904年12に移住したのが始まりである。
マニラで雑貨商をしていた太田恭三郎がダバオの肥沃な土地にをつけ日本人入植者を募って麻生産に乗りだしたのである。
ジャングルを切り開く困難な作業は第一次世界大戦の勃発で報いられた。
商品名の"マニラ麻"は船舶用のローブなどに使われ、最も高品質であるとの折紙がついた。
1916年には日本人移住者が約1万人に達し、大東亜戦争開始前の1939年には1万8000人となった。
35年当時、マニラ副総督だったヘイデンは、入植が成功したのは日本人が強力な互助会を組織し、道路網を整備し、灌漑事業を行い、日本人学校や病院を建設したためだと述べている。
日本企業は建設した道路を一般に開放し、麻の生産や繊維を抽出する機械を改良してこれも無料で普及させたと評価している。
ダバオの原住民人口は、約20万人であったが、約1万7000人の日本人が国税と地方税の半分を納めていたという。
また麻農園はフィリピン人労働者1万2000人以上を直接雇用し、間接的にも多くの職場を提供していた。
マニラのマスコミが日本による“ダバオ占領"を非難した理由は、日本企業が麻生産農地を次々に拡大したことによる。
外国人の土地所有が厳しく制限されていたため、日本人労働者のなかにはバゴボ族の酋長の娘と結婚し、妻名義で広大な土地を手に入れるものもでてきた。
入植者たちはアバカのほか、コブラ(ココヤシから作られた油脂原料)や一般商品の輸出入も手がけた。
比日関係を心配したケソンは、1935年、議員らとともにダバオを視察し、「日本人がダバオを所有している事実はない。ダバオの公有地200万ヘクタールのうち、日本人が持っているのは、6万ヘクタールにすぎない」と必死に反日論の鎮静化に努めた。
ホセ・ラウレルも比日関係を憂慮していた一人だ。
ラウレルは、日系企業の弁護士として、土地所有をめぐるフィリピン人との紛争処理を一手に引き受けていた。
このためラウレルには、"親日家"というレッテルがはられていた。

大東亜戦争の勃発で、現地の日本人は召集されるか、軍に徴用された。
多くの戦死者をだしたが、さらに悲惨だったのは、残された現地人の妻や子供であった。
大野俊の『ハポン』によると、戦後彼らは、「日本人の子供」として差別され、経済的困窮から小学校にすら行けず、フィリピン語や英語の習得の機会を逸したという。
地方語しか話せない彼らは、生活の手段もなく、日本国籍も持っていない。
国籍確認の作業は、数年前に始まったばかりで、日系2世たちの戦後はまだ終わっていない。

「新・栄光なき天才たち」にも、ダバオで活躍した太田恭三郎の話が載っています。

日本を頼っていたラモス

ラモスは、日本軍の援助を引き出そうとしていたようです。

ラモスは同年一一月、突然、秘書や党関係者らを引き連れて日本間に出発した。
彼らの落ち着き先は東京の芝三田南寺町七の二階家であった。
ラモスの来日目的は、どうやら日本軍部から革命蜂起のための武器援助を引きだすことにあったようだ。
ラモスは横浜にいたアルテオ・リカルテを通じて右翼の指導者頭山満を紹介された。
頭山は政友会代議士の松本君平にラモスを引き合わせ、松本が公私両面にわたってラモスの面倒をみたという。
松本はラモスを軍の大物であった荒木貞夫、松井石根、林鉄十郎、東条英機や、「大阪毎日」の高石真五郎、および興亜会の会員に紹介した。

日本軍のフィリピン進駐

日本軍は、表向きはフィリピンの独立に賛成していました。
ただ、裏ではどのように親日政権を作るか画策していたのでしょう。

一九四二年一月二日マニラに進駐した日本軍は、翌日から軍政を開始した。
同時に発布された軍政宣布は、
①、日本軍の進駐は比島民衆を米国支配から解放し大東亜共栄圏一員とし比島人のを建設するためである、
②、従来の法律行政制度と司法制度は軍政支障のない限り存続させる、
③、治安を乱す行動はすべて敵対行動と認め、最も峻烈処断し重いものは、死刑に処するなどと述べていた。

親日だったアキノ氏

こういうフィリピン人もいたんですね。
ベニグノ・アキノ・シニアです。

アキノは愛国者の立場から対日協力路線を歩んでいた。
この時代のアキノの発言は「フィリピンの国土と国民を救う唯一の可能性はゆるぎなくかつ機敏な支持を大東亜共栄圏に与えることにかかっている」と勇ましかった。

大東亜会議

こういう話があったことを日本人は知っておくべきだと思います。
歴史の教科書では、決して教えてくれないですけど。

独立後まもない一一月五日、六日の両日、東京で大東亜会議(参加国は日本、中華民国、タイ、 満州国、フィリピン、ビルマ。オブザーバーとして自由インド仮政府)が開かれた。
フィリピンからは、ラウレル大統領、レクト外相、パレデス土木交通相、アキノ国会議長らが参加した。
ビルマを代表して参加したパーモウ首相は、ラウレルがアジアの被圧迫民族の集合の場面に、人一倍感激していたと伝えている。
バーモウによると、会議前夜の歓迎会のあいさつでラウレルは、「歓迎会場に入った時、私の両眼からは涙があふれ出た。
そして私は勇気づけられ、鼓舞され、自らにいった。
十億のアジア人、十億の大東亜諸国民。どうして彼らが、しかもその大部分が特に英米に支配されてきたのか」と述べたという。
さらに大東亜戦争の意義について、ラウレルは以下のように演説した。

換言すれば、共存、協力及び共栄こそは大日本帝国に依り唱道せられ、大東亜共栄圏の他の諸民族諸国民の帰依する神聖なる理念の根を為す三要道であります。
大東亜諸民族、諸国民をして其の自然の生存権を享受せしめんが為に、大日本帝国は此の聖戦に生命財産のみならず其の存立其のものをさへも賭して居るのであります。
日本は単に自国民のみならず、大東亜全民族の為に戦ひつつあるのでありますが、日本は独り自己のみが生存し東亜の同胞が滅び苦しむことを幸福とするものではないことは私も十分承知して居る所であります。

……日本の勝利なくして共栄圏なく、我国乃至東亜に於ける如何なる国の自由もないのでありまして、東洋人の声威は興隆することなく、西洋諸国は再び往昔の如く、我々を支配し疲弊死に至らしめんとするでありませう。

日本軍と一緒に戦ったマカピリ隊

こういうフィリピン人達がいたことを、私達は決して忘れるべきではありませんね。

日本軍の“傭兵”ガナップ、マカピリ隊

大東亜戦争中、日本軍にすすんで協力を惜しまなかったフィリピン人部隊が存在したことはあまり知られていない。
抗日一色で、それも負け戦がはっきりしてきた時代、「フィリピン義勇軍」とでも呼ぶべき軍事組織が活動していたとは信じ難いが、それは本当のことである。

ガナップ隊は、戦前の親日政党ガナップ(独立「完遂」の意)党の党員で構成されていた。
各地に駐屯していた日本軍が、"密偵”、通訳、駐屯地要員として採用したのが始まりである。
駐屯地内では日本軍と同様な待遇を受け、兵装も同じで、階級まで与えられていたものもあったという。

一部のガナップ隊は、日本軍の米比軍ゲリラ掃討作戦に参加、軍事力としても貢献していた。
また彼らは、村落から抗日ゲリラを一掃するソーナ"作戦に多用された。
目だし頭巾をかぶり、スパイの判定を行ったため、民衆の憎悪の対象となった。

米軍がレイテ島に上陸したあとの44年11月10日日本軍はガナップ隊を基盤にマカピリ隊を結成する。
マカピリは、Makabayang Pilipinas(フィリピン愛国同士会)の略である。
中核は、ガナップ党総裁のベニグノラモス、独立戦争の闘士アルテミオ・リカルテ、マニラ大学教授ビオ・デュランらであった。
発足に当たっては、日本軍内部でも異論があった。
フィリピン人の軍事目的への使用は、ラウレル政府との関係を傷つける、という意見である。
しかし、山下奉文軍司令官は、「比島人の大部分が日本軍に協力しない時、このような人間を重用することに決して遠慮すべきでない」と積極的であった。

12月8日には、ラウレル大統領出席のもとに、同隊の正式な発足をみている。
もっとも、ラウレル大統領は、「フィリピン人青年をアメリカ軍と戦わせることはでき「ない」と強く主張していたので、マカピリは軍の補助要員として了解されていた。
しかし、米軍のリンガエン湾の上陸でルソン島が戦場になると、マカピリ隊は、所属部隊を助けながら、逃避行に移る。
彼らの中には、妻子やカラバオ(水牛の一種)まで連れて日本軍に追随していたものもおり、フィリピン戦史研究家の岩村高志によると、その数は推定約5000人に達したという。
彼らはバギオやマニラ東方山中で、食糧不足、熱帯病、米比軍ゲリラの追及を受け、多くの犠牲者をだした。
戦後、故郷に帰ったものは、集団リンチを受けて悲惨な死を遂げるものが続出した。
逮捕されて人民法廷の裁判に付され、禁固10年を超える判決を受けた隊員も多数いる。

この速成部隊は、日本軍制の中にしっかり位置づけられてはいなかった。
部隊によっては、給与すら払っていなかったという。
マカピリ隊発足にかかわった参謀部勤務の松延幹夫元少佐は「あの青年たちの純粋さ、勇敢さ。生命まで投げ打って」と彼らの末路を哀れんだ。

私は1981年以降、何人かのマカピリ隊員にインタビューしている。
彼らは、「愛国心からマカピリに参加した。
米比軍ゲリラのように特別給与の支払いや、報償を日本に求めない」と潔かった。
しかし、フィリピンの社会では敵通者として差別され、旧マカピリと知れただけで、官庁への就職もできないのが実情であった。

マニラで大虐殺を行ったのは誰か?

マニラ市民を殺したのはアメリカ人という話が、最近になって見直されてきたようです。

一九九五年二月は、マニラ解放の五〇周年記念であった。
例年三月にかけての記念月間では、各紙に「日本軍によるマニラ住民一〇万人の大虐殺」が定番として登場した。
私はこの歴史の節目の歴史観をさぐるため短期間マニラにでかけた。
ホセ・ラバ共産党元総書記は「マニラ・クロニクル』紙上で「われわれは米国の意図を見誤っていた」と、これまでの米国史観をかなぐり捨て、「マニラ解放」は実は米軍による「マニラ再占領であった」と歴史観を一八〇度転換させた。
「マニラ市民一〇万人の大虐殺」も、新聞によっては、「大半は米軍の艦砲射撃によるもの」と目本軍批判は大幅に後退した。

英語教育について

英語教育のせいで、その才能を閉ざされている子供たちも多くいます。
この話は日本の国語教育においても、考えさせられる話です。

多くの批判論がある中で、私はアキノ大統領が一人のフィリピン人として、国語のあり方に強い関心を持っていたことを記しておきたい。
国家的な大懸案でありながら、ほとんど改善の動きがみられないフィリピン語の現状を、アキノは憂慮していた。
国民の帰属意識や社会矛盾の根源に、「国語問題」があることを痛感していたからであろう。

現在フィリピンでは、フィリピン語と英語の「二言語教育」が小学校から行われている。
フィリピン語を教育用言語として、国語、社会、図工、体育などが教えられている。
英語で教えられているは、英語、算数、理科などである。
このため公立小学校では英語による教育についていけない生徒が続出し、教育現場は控え目に表現しても大混乱している。「英語が嫌い」とか「英語で教えるから算数が分からない」といった理由で登校拒否が目立っているいう。
子供たちの生活は二言語化さてない。
したがって英語はタガログ語地域では二重負担になり、他地方語地域では三重の負担にいるのが実情だ。

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