記事の内容
この記事では、いくつかの質問を通して日本と世界の近代史について考えていきたいと思います。
これを読めば、この数百年がどういった時代なのかうっすらと見えてくるはずです。
漫画のワンピースには、「空白の100年」と呼ばれる歴史の空白期間が存在しています。
それと同様に、我々が生きている社会では、「大航海時代から第二次世界大戦の終わり」までは歴史の空白になっています。
その期間で、どれだけの人命や文化が失われたのかは、もはや定かではありません。。。
目次
アメリカはどのように建国されたの?
アメリカ本土の侵略
アメリカという国は、そもそも昔からあった国ではありません。
アメリカには、1492年より前にはインディアン(アメリカに住んでいた先住民)がいました。
でも、1492年にコロンブスがアメリカを発見してから、少しづつ欧米人がアメリカに住み始めます。
最初は東部の一部のエリアだけでした。
でも、次第に欧米人の人口が増えるにつれて、インディアンの虐殺が始まります。
時には「虐殺」、時には「約束を破る」などして、徐々にインディアンから居住区を奪っていきます。
これを日本の教科書では、「マニフェスト・デスティニー」という単語で学んだと思います。
でも、実態はただの大虐殺やレイプです。
この大虐殺は1890年まで、約400年の間、続きました。
欧米人は、1億人以上のインディアンを殺したとも言われています。
ここがポイント
- アメリカ人の祖先は、インディアンを大虐殺した欧米人
- 欧米人は、インディアンを殺すことや騙すことを何とも思っていなかった
ハワイへの侵略(1700年代から1893年まで)
アメリカ人の侵略欲はアメリカ本土だけでは収まりませんでした。
次はさらなる西であるハワイに目を向けます。
ハワイには、カメハメハ大王が作ったハワイ王国がありました。
しかしながら、1893年にアメリカによって滅ぼされてしまいました。
ハワイは昔からアメリカだったわけではありません。
ハワイは、およそ100年ぐらい前にアメリカによって強奪されてしまった国です。
1893年といえば、日本は日清戦争(1894年)を行っていた頃で、明治26年です。
ちなみにハワイの王室は、日本の明治天皇に助けを求めたそうですが、日本はアメリカと揉めることを避けるために断りました。
ここがポイント
- アメリカ人は、ハワイの人々を大虐殺してハワイを奪った
フィリピンへの侵略
アメリカ人の侵略欲は、ハワイを奪ってもまだ収まりません。
次はハワイより西である、フィリピンに目を向けます。
ところが、フィリピンはすでにスペインに侵略されていました。
スペインがフィリピンを侵略していた期間は、1565年から1898年の間で、約333年もあります。
そして、フィリピンの統治権を巡って、アメリカ対スペインの戦争が行われました。
これは米西戦争と呼ばれていて、1898年に行われたものです。
その戦争ではアメリカが勝利して、フィリピンの統治権をスペインから奪います。
もちろん、アメリカはフィリピンの独立を認めませんでした。
それに対して、独立したいフィリピンは怒ります。
そのため、1899年にアメリカとフィリピンとの間で戦争が起こりました。
これは米比戦争と呼ばれています。
そしていつものように、アメリカ人はフィリピンを大虐殺しました。
60万人以上のフィリピン人を虐殺したとも言われています。
当時のフィリピン人の怒りは、相当なものだったのではないでしょうか?
ここがポイント
- フィリピンはスペインに333年間も支配されていた
- アメリカは、「フィリピンを独立させる」という約束を破った(いつものお家芸)
- スペインから領有権を奪ったアメリカと、独立したいフィリピンとの間で戦争が起こった
- アメリカ人は、当時の人口の15%である約60万人のフィリピン人を大虐殺したとも言われている
小笠原諸島への侵略
アメリカは、日本の小笠原諸島にも領土欲を持っていました。
そのため、ペリーは日米交渉で小笠原諸島の領有権を江戸幕府に宣言しています。
実際に小笠原諸島にはアメリカ人が住んでいたため、危うくアメリカに小笠原諸島を取られそうになりました。
でも、三国通覧図説という本に、小笠原諸島が日本の領土であることが明記されていたので助かりました。
三国通覧図説は1785年に書かれたもので、ペリーが来航した60年ぐらい前に書かれた書籍です。
オーストラリアとNZはどのように建国されたの?
オーストラリアの建国
欧米人がオーストラリアへの侵略を始めたのは、1788年です。
ここでも欧米人は、アボリジニを大虐殺しました。
人間狩りもしていたそうで、一日に17人のアボリジニを殺した記録も残っているそうです。
その結果、1788年には100万人はいたとされているアボリジニが、1920年には7万人にまで減ったそうです。
そうして、オーストラリアは白人によって奪われてしまいました。
戦前の地理の教科書には、そのように書かれていました。
ニュージーランドの建国(1769年〜1840年)
欧米人がNZへ侵略を開始したのは1769年です。
それから、欧米人がワイタンギ条約で原住民であるマオリ族を騙したのが1840年です。
ワイタンギ条約で、欧米人が勝手に作った法律上は、ニュージーランドの主権はイギリスのものとなってしまいました。
でも、それでマオリ族が納得するわけもありません。
30年間にも渡る欧米人とマオリ族の戦争が起きましたが、そこでも欧米人はマオリ族を大虐殺しました。
そうして、ニュージーランドも白人によって奪われてしまいました。
タスマニア島への侵略
タスマニア島にもアボリジニが住んでいましたが、彼らもハンティングの獲物にさたりして、1876年に絶滅しました。
ここがポイント
- 欧米人は、アボリジニを狩りの対象として数万人を殺した
- 欧米人は、アボリジニを大虐殺して、オーストラリア、NZ、タスマニア島を奪った
- 欧米人は、タスマニア島に住んでいる人達を皆殺しにした
明治維新って何で起きたの?
日本の明治維新が起きた理由についても説明します。
明治維新が起きた理由は、江戸幕府が制度疲労を起こしていたからという理由だけではありません。
根本的な理由は、欧米が日本を植民地にしてしまい、日本がにっちもさっちもいかなくなったので、明治維新が起きました。
つまり、直接的な原因は欧米にあり、幕府が腐敗していたというのは二次的な理由です。
日本はすでに植民地になっていた
ここまで読んだところで、欧米人の残虐さを理解してもらえたはずです。
そこで、「日本は大丈夫だったの?」と疑問に思う人もいるはずです。
実は江戸時代末期(1853年〜)には日本も欧米から侵略されて、植民地のようになっていました。
アメリカ人が日本人を騙して為替レートの条約を結んだせいで、日本からは大量の純金が流出しました。
そのため、日本を突如として3倍のインフレが襲いかかりました。
3倍のインフレとは、今まで100円のジュースだったものが、300円になってしまうことです。
もちろん、給与は今までのままです。
当時、暮らしていた国民がどれだけ辛いことかわかるはずです。
問題は、それだけではありません。
欧米人には治外法権が適用されたので、欧米人が日本人を殺したりレイプをしても大した罪には問われませんでした。
また、関税自主権もなかったので、欧米から安価な商品が大量に入ってきたので、日本の生産者は困りはてました。
今の日本には関税自主権があるので他国から安価な商品が入ってくることはありません。
でも、関税自主権がなければ安い商品が大量に入ってくるので、生産者は生活をすることができなくなります。
あと、これは欧米人が悪意を持ってやったことではありませんが、欧米人は日本にペストを持ち込みました。
そのため、日本中で沢山の人々が亡くなりました。
江戸では4人に1人が亡くなったとも言われています。。。
こうした状況を打破するべく立ち上がったのが長州藩と薩摩藩です。
ちなみに治外法権が撤廃されたのは1894年で、関税自主権を日本が取り戻したのは1911年です。
これは日清戦争と日露戦争に勝利して、力で勝ち取ったものです。
残念ながら当時の常識では、戦争をしなければ不平等条約を撤廃することはできませんでした。
ここがポイント
- 欧米に騙されたせいで、日本は大量の純金を失った
- 日本を3倍のインフレが襲った
- 欧米人には治外法権があったので、日本の法律で裁くことができなかった
- 日本は関税自主権を持っていなかったので、日本の生産者は困りはてた
- 欧米人が持ちこんだペストのせいで、多くの日本人が亡くなった
- 明治維新は、欧米人のせいで起こった
- このような庶民の怒りが明治維新、日清戦争、日露戦争へと繋がっていった
現在、香港が混乱している元々の原因は何?
もともと、香港は清(中国)のものです。
それが欧米に奪われたのは1840年で、今からおよそ150年前の話です。
1840年頃にアヘン戦争が起きました。
アヘン戦争は、清(中国)は勿論のこと、日本にも大きな衝撃を与えました。。。
アヘン戦争の原因
アヘン戦争とは、1840年から1842年にイギリスと中国が戦った戦争です。
そして、その理由は中国が麻薬であるアヘンを捨てたことが原因です。
アヘンは国民に有害なので、中国が違法であるアヘンを捨てるのは当然のことです。
でも、なぜかイギリスは逆ギレして中国に戦争を仕掛けました。
そうして、イギリスが圧勝したのがアヘン戦争です。
アヘン戦争で清国が失ったもの
アヘン戦争の結果、イギリスは香港を奪いました。
このようにして奪われた香港ですから、中国は今でもそれを恨みに思っているのも当然です。
そのため、現在、中国が香港を中国に組み込むことは当然のことだと言えます。
第二次アヘン戦争
アヘン戦争が終わった後で、中国でも攘夷運動(異人排斥運動)が盛んになります。
そのため、再度、中国と欧米諸国との間で戦争が起こりました。
二回目の戦争でも欧米諸国の圧勝でした。
二回のアヘン戦争で清国が失ったもの
アヘン戦争で中国が失ったのは財宝やお金だけではありません。
中国は莫大な領土も失いました。
ロシアがウラジオストックを手に入れたのはこの頃です。
ちなみに、ウラジオストックとは「東方を侵略せよ」という意味の街です。
この事件も、日本に大きな衝撃を与えました。
なぜならば、次にロシアが狙っている国は、朝鮮と日本であることは明白だからです。
この頃から、日本は海を隔てて国境を接することになったロシアを仮想敵国としてみなし始めました。
ここがポイント
- イギリスはアヘンという麻薬を捨てられて逆ギレした
- イギリスは理不尽に戦争を仕掛けて香港を奪った
- ロシアは理不尽に、中国から莫大な領地を奪った
- ロシアがウラジオストックを奪ったために、日本はロシアを仮想敵国とみなした
台湾は何で親日なの?
台湾は、一応は清(中国)の領土でした。
ただし、清は「化外の地」と呼んでいたぐらいで、台湾で日本人が殺されても全く責任は取っていませんでした。
つまり、「一応は清の領土だけど、そこで起こったことに対する責任は取らないよ」ということです。
そうした経緯や日清戦争で日本の勝利によって、台湾は1895年から日本の領土になりました。
それから、日本が台湾で善政をしいたことは台湾では有名な話です。
教育、衛生医療、ダム建設といったあらゆるインフラの基礎を作りました。
このあたりが、欧米の「ただ収奪するだけの植民地」とは異なるところです。
ここがポイント
- 日本は、清国から台湾を奪った
- 日本は、教育、衛生医療、ダム建設といったあらゆるインフラの基礎を作った
- 日本にも「世界から尊敬されたい」という下心はあった
- 李登輝元総統をはじめとして、当時の台湾人は日本に感謝している
- 台湾人は2等国民として差別されていたが、いいこともあった
第三者からの視点も紹介したいので、1904年の10月に発行されたNYTimesの記事についても貼っておきます。
100年以上前の1904年の10月に発行された記事なので、政治的な意図や偏見は少ないはずです。
英語を読むのが面倒な人は、DeepLで翻訳された日本語を読んでみて下さい。
台湾における日本の善政をベタ褒めしていますね。
当時のアメリカの新聞が、「フィリピン統治に関しては、日本の台湾での善政から学べることは多くありそう」なんて発言している(意訳)のは嬉しいポイントです。
JAPAN'S WORK IN FORMOSA Published 10/10 in 1904
The proofs of efficiency given by Japan in her war with Russia are so convincing and impressive that we are apt to forget the high state of civilization which the preparation for that efficiency in war involves.
We have been led also to overlook the remarkable work she has been doing in Formosa, where her task heavily tailed all resources and all her skill in the walks of peace as well as war.
A recent letter from a correspondent of The London Times sets forth at much length and in detail the nature of the task and the kind and degree of success that has been attained.
It was in some important regards so like that we have assumed in the Philippines that it is well worth considering
When Japan took over Formosa from China nine years ago the population of some 2,500,000 were harassed and plundered in the interior by bands of marauders and on the coast was largely made up of pirates.
The first work of the Japanese was to suppress piracy and establish order in the interior.
This took nearly six years, though other aims were not neglected in the meantime.
The objects most systematically pursued were road buildings, sanitation, education, and the introduction of improved agriculture and of industries.
Up to the present time more than a thousand miles of roads have been constructed, 95 miles of railroad, with 37 stations, were provided;125miles of light railways were laid, and a plan surveyed and mapped out for an extensive system of railways for which $14,000,000 have been appropriated.
The telegraph and telephone wires have been introduced and 87 Post Offices have been opened, which in 1903 handled over 13,000,000 letters and some 330,000 money orders.
The efforts in sanitation have been directed to providing pure water, primarily through driven wells, with waterworks in the centres of population, toward the improvement of drainage, the systematic introduction of trained doctors, of whom some 200 are already in the island; the establishment of hospitals and the instruction of the natives in the essentials of hygiene.
A practical proof of the efficacy of these measures is seen in the fact that the deaths from plague declined between 1900 and 1903 from 2,619 to 606.
The staple products of the island have increased in a notable degree tea five fold, rice 10 per cent, camphor 125 per cent, while camphor oil, formerly wasted, is now a profitable product. Between 1899 and 1901 the output of coal increased 100 per cent, of silver 250 per cent and of gold sevenfold.
The general revenue of the Government advanced from about $1,350,000 in 1896 to over $6,000,000 in 1903.
The currency has been changed from old copper cash with silver passing by weight to the monetary system of Japan.
The deposits in savings banks-postal now-have increased from $114,000 in 1896 to over $382,000, or more than threefold.
And the population has grown since 1897, when the first census was taken, from about 2,500,000 to over 3,000,000 in 1903, or about 20 per cent.
This is plainly a splendid and an unprecedented record
DeepLの翻訳版
台湾での日本の仕事 1904年10月10日発行
日本がロシアとの戦争で示した効率性の証明は、あまりにも説得力があり、印象的であるため、戦争での効率性のための準備には文明の高い状態が含まれていることを忘れがちである。
私たちはまた、日本が台湾で行っている顕著な仕事を見落とすように導かれている、日本のタスクは、すべてのリソースと戦争だけでなく、平和の歩みの中ですべての日本のスキルを重く尾行した。
ロンドン・タイムズ紙の特派員からの最近の手紙には、タスクの性質と達成された成功の種類と程度について、かなりの長さと詳細が記載されています。
それはいくつかの重要な点で、私たちがフィリピンで想定しているようなものであり、それを考慮する価値は十分にあると思います。
9年前に日本が中国から台湾島を占領したとき、約250万人の人口は内陸部では略奪者たちによって嫌がらせと略奪を受け、沿岸部では大部分が海賊たちで占められていました。
日本人の最初の仕事は、海賊を抑圧して内陸部の秩序を確立することだった。
これには6年近くかかったが、その間に他の目的も怠ったわけではなかった。
最も体系的に追求された目的は、道路建設、衛生、教育、改良された農業と産業の導入であった。
現在までに1000マイル以上の道路が建設され、95マイルの鉄道が37駅設置され、125マイルの軽便鉄道が敷設され、大規模な鉄道システムのための計画が調査・計画され、そのために14,000,000,000ドルが計上されました。
電信と電話線が導入され、87の郵便局が開設され、1903年には1,300万通以上の手紙と約33万通の郵便為替が取り扱われた。
衛生面での努力は、主に井戸を使った純粋な水の供給、人口の中心部に水道を設置し、排水の改善、訓練を受けた医師の体系的な導入、病院の設立、衛生の要点の指導などに向けられています。
これらの対策の効果が実際に証明されているのは、1900年から1903年の間にペストによる死亡者数が2,619人から606人に減少したという事実です。
島の主食品は、茶が5倍、米が10%、樟脳が125%と大幅に増加し、かつては浪費されていた樟脳油は、今では収益性の高い製品となっています。
1899年と1901年の間に、石炭の生産量は100%、銀の250%と金の7倍増加した。
政府の一般収入は、1896年に約135万ドルだったものが、1903年には600万ドルを超えました。
通貨は、銀を重さにした古い銅貨から、日本の通貨制度に変更されました。
貯蓄銀行の預金は、1896年の11万4,000ドルから現在では3倍以上の38万2,000ドルに増加しました。
そして、最初の国勢調査が行われた1897年以降、人口は約250万人から、1903年には300万人を超え、約20%に増加している。
これは明らかに前例のない素晴らしい記録である。
第二次世界大戦前で、日本は悪いことをしたのか?
最後に、現代の世界地図につながる第二次世界大戦(1940年頃)についても説明したいと思います。
この戦争で、「日本は悪いことをした!」と言われることが多いのですが、果たして本当にそうなのでしょうか?
1492年の大航海時代から、白人はアメリカ、南米、インド、アフリカ、オーストラリア、東南アジア、中国、中東という世界中のあらゆる地域を侵略しました。
そして、その侵略は1945年まで続きました。。。
何百年間も、白人の支配が続きました。
その支配が終わったのは、第二次世界大戦が終わった後です。
5年間にわたり日本の統治下にあった東南アジア諸国の人達は、その5年間で「欧米からの支配の鎖」を断ち切ることができました。
ここで、一つ考えて欲しいことがあります。
第二次世界大戦がなかったら、世界はどうなっていたでしょうか?
第二次世界大戦がなかったら?
- 東南アジアは欧米から独立できていたと思いますか?
- それとも、東南アジアはアメリカやハワイ、そしてオーストラリアのようになっていたと思いますか?
歴史を見ている限りでは、東南アジアもハワイやオーストラリアのように、欧米人の国になっていた可能性は高いと思います。
歴史の大局を見ていると、侵略者は明らかに欧米人です。
そして、結果としてという側面もあるとは思いますが、アジアやインドを独立に導いたのは日本です。
しかしながら、日本は東南アジアにヒドいことをしたという人達もいます。
今の価値観から見れば、日本が東南アジアの人達にヒドいことをしたという事実もあるでしょう。
敵国の兵士であるアジア人を殺したケースも多々あると思います。
でも、それは欧米人が行ってきた残虐行為とはまるで別の話ではないでしょうか?
また、養神館合気道の創始者である塩田剛三先生が、ある戦争の現場について言及していました。
一部の日本人兵士は、捕虜である中国人を「自分の拳で、一撃必殺で人間を殺せるかどうか?」ということを試していた。
そういった惨たらしいことを決して、やってはいけない。
もちろん、戦争自体もやるべきではない。
このような話を聞いていると、日本人でも悪いことをしていた人達がいたことは間違いありません。
ただ、個人レベルで言えば良い人もいれば悪い人もいるというのは、昔も今も同じです。
現代の日本社会においても、一部の日本人は東南アジアの人々にヒドいことをしています。
時々、事件になっているベトナム人の交換留学生の話なんかは、その最たるものでしょう。
そういった事実だけを切り出して、100年後の日本人が2020年の日本人を裁けば、「2020年の日本人は悪い人達だった」と見られるはずです。
2020年を生きている日本人がそのように判断されることについて、どう思いますか?
私はあまりいい気持ちがしません。
ですから、私は80年前に日本が悪いことをした事実と同時に、日本が行っていた善政にも目を向けたいと思います。
この記事は、これらの本を参考にしました。
▼ バリ島でオランダ人がおこなった残虐行為について知りたい人は、この記事を読んでみて下さい。
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