最近、「予想どおりに不合理」という本を読んでいる。
その中に「相対性」という言葉が出てくる。
例えば「給料に関する相対性」とは、自分の年収1000万だったとしても、隣の席に座っている同僚の年収が1500万円だったら、不満を感じてしまうという話だ。
「旅行中の相対性」とは、バリへの旅行中に知り合った異性の日本人と意気投合したものの、日本に戻ってみたら、あんまり意気投合できなかったみたいな話だ。
「あいのり」の出演者がカップルになっても、旅から帰ってきたら別れていたというのも、この話と同じだろう。
この相対性というのは、実に厄介だ。
なぜならば、日本人は常に上と比較するように教育されているからだ。
それとも、ひょっとしたら、上と比較をするのは人間の本能にインプットされているのかもしれない。
モーセの十戒には、このような内容のことが書かれている。
隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切、欲しがってはならない
ようするに、「他人とは比較をするな」ということだ。
他人と比較をしてしまうのは、人の性(サガ)なのかもしれない。
これには、私自身も思い当たる節がある。
東京で働いていた頃はずっと上昇志向で、いつまでも満足感や幸福感を得られなかった。
それなりに有名なIT企業に入社をしても、森ビルの中で働いても、高揚感を得られるのは最初の数ヶ月だけで、それ以降はイマイチだった。
理由を端的に言えば、「上には上がいる」ということを肌で感じてしまったからだろう。
それから転職をしてフィリピンで働き始めたのだが、なぜだか幸福感が上がったのだ。
ご飯は美味しくない、住居にはアリが出る、インターネットは遅い。
でも、幸福感は上がったのだ。
その理由は、嫌味な言い方かもしれないけど、周りの貧乏そうな人達と自分の生活を、無意識に比べていたからだろう。
これも相対性という話だ。
フィリピンでの生活は、残念ながら、こんな風に感じてしまう。
- レストランで接客をしている人のレベルは低い
- 食事は美味しくない
- 女性は、化粧をしてないし、歩き方が綺麗じゃない
- 道路はガタガタで、ゴミだらけ
このような環境を自分の標準にしている時に日本に戻ると、日本の環境を以下のように、素晴らしく感じる。
- レストランで接客をしている人のレベルは高い
- 吉野家でも美味しい
- 女性は、みんな綺麗
- 日本の道路は綺麗
人によっては「いやいや、そんなの比較対象のレベルが低すぎる話でしょ」と思うかもしれない。
でも、低いレベルの人達と比較をすることは、そんなに悪いことなのだろうか?
人間は放っておくと、常に上と比較をして、嫉妬をしてしまう。
それを考慮すると、意識的に「下と比較をする」という選択肢を持つのもアリではないだろうか?
- フィリピン人の接客に比べたら、日本人の接客は素晴らしい
- 日本での食事は、安くても美味しい
- フィリピン人に比べたら、日本人女性は可愛いし、所作が綺麗
- フィリピンの道路に比べたら、日本の道路は完璧
こんな風に捉えながら現状の良さを見直すと、自分の身の回りの見え方が変わってくるかもしれない。
昨今は、インターネットのせいもあり、「隣人」と感じられる範囲が非常に拡がっている。
言うならば、誰も彼もが、自分の隣人みたいなものだ。
そんな世の中だからこそ、あえて下方にも目を向けるべきではないだろうか?
日本にいれば、あなたはレベルが低いと感じてしまう事もあるかもしれない。
でも、世界中にいる色々な人達と比較をすれば、決してそんな事はない。
あなたは普通のレベルだ。
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