フィリピンのビガンで、興味深い手紙を見つけたので紹介します。
内容は以下の通りです。
戦後物資の缺乏に伴い絵具の入手に困窮して本校の図画教育にも支障を来しました時学校の図画担任教師が考案した末がこの布絵であります
各種の布屑を利用してその幾百千という多数の小片を根気強く糊ではりつけて作ります
本校の女生徒等が心をこめて製作した此布絵を此度我カープ野球団に托して贈呈致します
一九五四年一月十日 比治山女子学園長 国信玉三
ちなみに、「布絵」は「きれえ」と読むそうです。
この手紙を送った背景に、どういう話があったのかはわかりません。
山本正房さんが、なぜフィリピンにいたのか、その理由もわかりません。
ただ、実際に広島カープが1954年にフィリピン遠征をした話は存在しています。
原爆で廃墟と化した広島に健全なスポーツを育て、精神的な復興の一助とする――。広島の球団創設の理念はあまねく知られている。
その理念に基づき、今から64年前の1954年1月にはフィリピン遠征を行っている。
ミッションは「日比親善」。
この事実は球団が単に復興のシンボルとして存在したのではなく、平和構築のための主体的かつ能動的な装置として機能してきたことを意味している。フィリピン遠征の橋渡しをしたのは地元出身の代議士・松本瀧蔵だ。
2016年には野球を通じた戦後復興や国際交流に尽力した功績により野球殿堂入りを果たしている。選手たちを前に、松本はこう語ったという。「今回の比島訪問には二つの意義がある。戦犯釈放問題に対する国民使節的意義と、スポーツを通じて国民感情をやわらげ、賠償解決の糸口をつけることだ」
1954年といえば、まだ大戦の傷は癒えていない。
戦時中、抗日ゲリラ隊の隊長だったアルセニオ・ラクソン・マニラ市長は当初、「日本人と口を聞くのもいやだ」と言ったという。
日本人に対する国民感情は推して知るべしだった。フィリピンの人びとの対日感情を癒やし、親善に実効性を持たせたのは選手たちの懸命なプレーだった。
戦績は、国内の大学、軍隊、企業チーム相手に11勝1敗。
格下相手にも決して手抜きせず、それが逆に日本人の評価につながったという。
「過去のことは一切忘れて日比親善のため一緒にやっていこう」。
政府要人から、その言葉を聞いた時の松本の心中は、いかばかりだったか。こうした先人たちの努力や労苦が球団の歴史に輝かしい彩りを添えている。
その意味で広島カープは「市民球団」であると同時に「国際球団」でもあるのだ。
歳月に埋もれた史実を見過ごしてはならない。
松本瀧蔵さんのwikiには、このような記述がありました。
1953年秋からフィリピンに渡り、フィリピン国立大学の教授を務めながら、マニラアジア競技大会(1954年)の準備を進めた。
この過程でマニラ体協がスポーツ使節として広島カープを招待するという話を持ちかけ、1954年の広島カープ初の外国遠征を実現させた。
当時のフィリピンはまだ日比賠償協定(1956年締結)が成立しておらず、フィリピンは太平洋戦争中、日本軍に占領され甚大な被害を受けたとされ、対日感情が非常に悪く、国家として緊張を残した状態での遠征であった。
カープには、モンテンルパ戦犯の釈放に対する日本からの答礼を伝えることと、スポーツを通じた交流により、国家間の賠償問題を円滑に進めるという親善大使としての役割が与えられ、フィリピンとの国交正常化にひと役買った
慰霊のために、比治山女子学園の生徒さんが布絵を作って、カープ球団を通して山本正房さんに渡した手紙が、なぜかビガンの美術館?にあったようです。
具体的にどこの美術館にあったのかは、残念ながら忘れてしまいました。
一応、写真には位置情報が登録されていたので、それもアップロードしておきます。
位置情報がズレることはよくあるのですが、おおよその位置はあっています。
手紙が、この区画にある美術館のどこかにあったことは間違いありません。
もし、この手紙がある美術館と、その周りに布絵がありましたら、写真を私に送って頂けたら嬉しいです^^
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フィリピンのビガンへの行き方
ビガンは世界遺産にも登録されていて、スペイン統治時代の面影を残した美しい街です。街の雰囲気は、マニラにあるイントラムロスと似ています。場所は、フィリピンの北の方で、バスで9時間ほどかかります。 マニラのEDSAの近くにあるバス停から出発しま ...