この記事では、年代ごとに私が知っているアジアの虐殺の歴史についてまとめていきたいと思います。
戦争ではなくて、主に兵士が民間人を虐殺した事件です。
なぜこれを書こうと思ったのか、簡単な例を出して説明します。
小学校のクラスで10人の生徒が万引きをして捕まったとします。
そして先生は、そういった事件を二度と起こさないように、何度もその万引き事件について言及します。
でも、その先生は常にA君だけを引き合いに出します。
なのでA君は、「でも、他の生徒だって万引きしたのに」と言いますが、先生はいつも「A君が万引きしたのは事実だよね?」とA君ばかりを責め立てます。
こういったやり方について、どう思われますか?
A君がした万引きは悪いことだし事実ですが、A君だけを責めるのはフェアでしょうか?
私は、A君を引き合いに出すのであれば、他の生徒全員を引き合いに出すべきだと思います。
そういった想いがあって、この記事を書こうと考えました。
現代の日本人は、アジアの虐殺史を知らな過ぎです。
ちなみに、世界に目を向ければもっと多くの虐殺事件がありますが、数が多くなりすぎるので、今回はアジア周辺だけにしておきます。
ここには書いてないからと言って、アメリカ・南米・豪州・ヨーロッパ・アフリカが平和だったわけでは決してありません。
目次
- 1 1998年(インドネシア虐殺)
- 2 1991年(サンタクルス虐殺)
- 3 1975年(東ティモール紛争)
- 4 1975年(カンボジア大虐殺)
- 5 1970年代(ミンダナオ紛争)
- 6 1968年(ベトナム戦争)
- 7 1966年(文化大革命)
- 8 1965年(9月30日事件)
- 9 1950年(チベット動乱)
- 10 1948年(済州島四・三事件)
- 11 1947年(二・二八事件)
- 12 1946年(シベリア抑留)
- 13 1945年(葛根廟事件)
- 14 1945年(東京大焼殺)
- 15 1945年(原爆投下)
- 16 1945年(マニラ大虐殺)
- 17 1937年(南京大虐殺?)
- 18 1937年(通州事件)
- 19 1920年(尼港事件)
- 20 1907年(バリ島の虐殺)
- 21 1906年(Bud Dajo)の虐殺
- 22 1902年(フィリピン独立戦争)
- 23 1900年(アムール川の流血)
- 24 表でのまとめ
1998年(インドネシア虐殺)
1998年にインドネシアで起きた事件です。
インドネシアで、中華系のインドネシア人が、女性・子供も含めて虐殺されました。
インドネシア人は酷いですが、それほどの恨みをかうぐらい、華僑が酷い商売をしてきたとも言えます。
死者数は約1200名です。
いつ?;1998年
どこで?;インドネシア
死者数;約1,200人
1991年(サンタクルス虐殺)
1991年にインドネシアの東ティモールで起きた事件です。
東ティモールは今は独立国ですが、当時はインドネシアの支配下にありました。
インドネシア国軍が、独立を求めるデモ行進を行っていた市民に対して無差別に発砲し、大量の死傷者を出した。
サンタクルス虐殺や、ディリ事件とも呼ばれています。
死者数は約300名です。
いつ?;1991年
どこで?;東ティモール
死者数;約300人
1975年(東ティモール紛争)
1975年にインドネシアの東ティモールで起きた事件です。
1975年に、東ティモールはインドネシアからの独立を宣言したので、それに反発したインドネシアとの紛争が勃発しました。
1999年までの約20年間で、約20万人以上が殺されたと言われています。
いつ?;1975年〜1999年
どこで?;東ティモール
死者数;約20万人
1975年(カンボジア大虐殺)
ポル・ポトが率いるクメール・ルージュという共産党政権が、1975年から1979年の間に150万〜200万人の人達を虐殺しました。
メガネをかけているだけで、知識層と見られて、殺されたそうです。
いつ?;1975年〜1979年
どこで?;カンボジア
死者数;約200万人
1970年代(ミンダナオ紛争)
ミンダナオの一部地域が、独立しようとして紛争が起きた。
約15万人以上の人が亡くなったと言われています。
いつ?;1970年〜
どこで?;フィリピンのミンダナオ
死者数;約15万人
1968年(ベトナム戦争)
1968年、ベトナム戦争において、韓国軍がベトナムの民間人を約1万人、殺したと言われています。
大量にベトナム人女性をレイプしており、韓国人とベトナム人の混血児であるライダイハンは、3万いるとも言われています。
いつ?;1968年
どこで?;ベトナム
死者数;約1万人
1966年(文化大革命)
中国共産党による民衆の虐殺事件です。
中国と内モンゴルで、大量の粛清が起こりました。
被害者は推定で、2千万人とも言われています。
いつ?;1966年〜1976年
どこで?;中国と内モンゴル
死者数;約2千万人以上
この本を参考にしました。
1965年(9月30日事件)
1960年代後半、インドネシアで2つのクーデターが発生しました。
事件の起きた日付から、前者は9・30事件と呼ばれています。
権力闘争が絡んだ事件の裏で、最大200万人とも言われる市民が巻き添えとなり、残酷な手口で虐殺されました。
いつ?;1965年
どこで?;インドネシア
死者数;約200万人以上
この本を参考にしました。
1950年(チベット動乱)
中国共産党がチベットに侵攻した事件です。
チベット動乱とも呼ばれています。
1950~1976年の間で、約120万人以上のチベット人が殺されたと言われています。
この事件のせいで、ダライ・ラマは亡命することとなりました。
いつ?;1950年
どこで?;チベット
死者数;約20万人以上
1948年(済州島四・三事件)
済州島四・三事件と呼ばれています。
1948年、韓国の済州島で起きた事件です。
朝鮮半島の李承晩支持派が、1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指します。
いつ?;1948年
どこで?;韓国
死者数;約3万人〜8万人
1947年(二・二八事件)
二・二八事件と呼ばれています。
1947年の台湾で起きた事件です。
日本統治時代にいた元日本人と、日本人の代わりにきた蒋介石との対立が原因です。
蒋介石が率いる軍人が、自国民を殺しました。
死者数は、約3万人とも言われています。
いつ?;1947年
どこで?;台湾
死者数;約3万人
これらの本を参考にしました。
1946年(シベリア抑留)
1946年に、日本軍兵士の約55万人がソ連に連れていかれて、強制労働をさせられました。
その内の約5万人が、過酷な労働のせいで亡くなりました。
これも、立派な虐殺事件です。
いつ?;1946年〜1949年
どこで?;ソ連やモンゴルなどの各地
死者数;約5万人
1945年(葛根廟事件)
1945年8月14日、満洲国興安総省の葛根廟付近において、ソ連兵が日本人の避難民千名以上を虐殺しました。
避難民の約9割以上が女性や子供であったそうです。
葛根廟事件(かっこんびょうじけん)と言われています。
いつ?;1945年8月
どこで?;満洲国興安総省の葛根廟
死者数;約千人
1945年(東京大焼殺)
1945年3月にアメリカ軍が東京を空襲して、約10万人を焼き殺しました。
罹災者は100万人を越えています。
殺された人たちの多くは民間人なので、これは立派な戦争犯罪です。
今では東京大空襲とも呼ばれています。
いつ?;1945年3月
どこで?;東京
死者数;約10万人
1945年(原爆投下)
1945年8月にアメリカ軍が、広島と長崎へ原爆を落としました。
亡くなった人達を正確に数えることは難しいのですが、合わせて20万人以上は亡くなっていそうです。
殺された人たちの多くは民間人なので、これも最悪な戦争犯罪です。
いつ?;1945年8月
どこで?;広島と長崎
死者数;約20万人以上
1945年(マニラ大虐殺)
1945年2月に、アメリカ軍がフィリピンのマニラに侵攻した時に、フィリピンの民間人の約10万人が殺されたとしています。
戦後、これは全て日本軍がやったことになっていましたが、その証拠はありません。
なぜなら、日本軍にそんなに武力があったならば、それはアメリカ軍に向けられるからです。
さらには、日本軍にフィリピン人を殺す意図があったならば、アメリカ軍が来る前に、とっくに虐殺行為をしているはずだからです。
ですから、マニラ大虐殺の大半を行ったのはアメリカ軍だと思われます。
あとは、フィリピン人がゲリラ兵になったケースもあるので、その場合は日本軍と戦闘になったケースもあったようです。
ただ、その場合は戦闘行為なので、民間人の虐殺とは意味が異なります。
一九九五年二月は、マニラ解放の五〇周年記念であった。
例年三月にかけての記念月間では、各紙に「日本軍によるマニラ住民一〇万人の大虐殺」が定番として登場した。
私はこの歴史の節目の歴史観をさぐるため短期間マニラにでかけた。
ホセ・ラバ共産党元総書記は「マニラ・クロニクル』紙上で「われわれは米国の意図を見誤っていた」と、これまでの米国史観をかなぐり捨て、「マニラ解放」は実は米軍による「マニラ再占領であった」と歴史観を一八〇度転換させた。
「マニラ市民一〇万人の大虐殺」も、新聞によっては、「大半は米軍の艦砲射撃によるもの」と目本軍批判は大幅に後退した。
いつ?;1945年2月
どこで?;フィリピンのマニラ
死者数;約10万人以上
この本を参考にしました。
1937年(南京大虐殺?)
1937年に、日本が中国の首都である南京を占領した時に起きた事件です。
南京事件、南京大虐殺と呼ばれています。
被害者は40人と言うひともいれば、30万人と言う人もいます。
謎な事件です。
日本が戦争に負けるまで、朝日新聞はこの事件を一切、扱っていないどころか、「南京は平和だ」と報道していました。
でも戦後になってから、朝日新聞は「南京大虐殺があった」と騒いでいます。
朝日新聞は、おかしな記事を捏造ばかりしていないで、まずは自社の報道体制を見直して、一貫した報道をするべきです。
いつ?;1937年
どこで?;中国の南京
死者数;約40人
これらの本を参考にしました。
1937年(通州事件)
1937年、中国の北京市通州区で起きた事件です。
通州事件と呼ばれています。
約300人の日本人が虐殺・強姦されました。
いつ?;1937年
どこで?;中国の北京市通州区
死者数;約300人
これらの本を参考にしました。
1920年(尼港事件)
1920年に、ロシアのニコラエフスクで起こった事件です。
尼港事件(にこうじけん)と呼ばれています。
ロシア革命の最中に起きた事件で、日本人を含む約6千人の民間人が虐殺されました。
こういった事件があったからこそ、日本はシベリアに長く滞在しました。
いつ?;1920年
どこで?;ロシアのニコラエフスク
死者数;約6千人
この本を参考にしました。
1907年(バリ島の虐殺)
1907年に、インドネシアのバリ島で、オランダ人が現地人を虐殺しました。
死者数は千人から2千人と言われています。
この話は、「バリ島物語」として有名に語られています。
いつ?;1907年
どこで?;インドネシアのバリ島
死者数;約2千人
この本を参考にしました。
1906年(Bud Dajo)の虐殺
Bud Dajoは、フィリピンのミンダナオ地方にあるホロ島にあります。
今でいうモロ(ミンダナオ)紛争のようなものです。
モロと呼ばれるイスラム教徒の人々が、アメリカ人によって虐殺されました。
虐殺された人々の大半が、女と子供だったと言われています。
いつ?;1906年
どこで?;フィリピンのモロ島
死者数;約千人
1902年(フィリピン独立戦争)
1896年8月以来カティプナンのフィリピン人たちは、スペインからの独立(フィリピン独立革命)のために戦ってきた。
1898年5月1日に米西戦争の戦闘の1つであるマニラ湾海戦でスペイン軍が敗北した。
アメリカはフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルドに、勝利の暁に独立させると約束して背後からスペイン軍を襲わせた。しかし、スペインの降伏後にアメリカは、フィリピン独立の約束を反故にして植民地にし、アギナルド率いる独立軍1万8千人の掃討を始めた。
上院に報告された数字では、アメリカ軍は1902年までの4年間で20万人を殺害した。
「10歳以上のフィリピン人は皆殺し」というスローガンもあったそうです。
マニラ近郊のカローカンで、1万7千人もの老若男女を殺した事件も、当時は有名でした。
いつ?;1898年〜1902年
どこで?;フィリピン
死者数;約20万人〜150万人
1900年(アムール川の流血)
1900年に、中国の満洲地方、アムール川の周辺で虐殺事件が起こりました。
ロシア人の兵士が清国の民間人を虐殺した事件です。
「アムール川の流血や」という歌にもなったぐらい有名な事件です。
義和団事件に対するロシア人の仕返しですが、それにしてもやり過ぎです。
この事件の後、ロシアが満洲に居座り始めて、それが日露戦争に繋がっていきます。
死者数は2万人以上と言われていますが、正確な数字は残っていません。
いつ?;1900年
どこで?;中国とロシアの境界線付近のアムール川
死者数;約2万人
この本を参考にしました。
表でのまとめ
いつ | どこで | 被害者の国籍 | 被害者の人数 | 加害者の国籍 |
1900年 | アムール川付近 | 清国人 | 約2万人 | ロシア人 |
1902年 | フィリピン | フィリピン人 | 約20万人以上 | アメリカ人 |
1906年 | フィリピン | フィリピン人 | 約千人 | アメリカ人 |
1907年 | バリ島 | バリ人 | 約2千人 | オランダ人 |
1920年 | ニコラエフスク | 日本人・韓国人・清国人 | 約6千人 | ソ連人 |
1937年 | 通州 | 日本人 | 約300人 | 中国人 |
1937年 | 南京 | 中国人 | 約40人? | 日本人? |
1945年 | マニラ | フィリピン人 | 約10万人 | アメリカ人 or 日本人 |
1945年 | 東京 | 日本人 | 約10万人 | アメリカ人 |
1945年 | 広島と長崎 | 日本人 | 約20万人 | アメリカ人 |
1945年 | 葛根廟 | 日本人 | 約千人 | ソ連人 |
1946年 | シベリア | 日本人 | 約5万人 | ソ連人 |
1947年 | 台湾 | 台湾人 | 約3万人 | 中国人 |
1948年 | 韓国 | 韓国人 | 約3万人 | 韓国人 |
1950年 | チベット | チベット人 | 約120万人 | 中国共産党 |
1965年 | インドネシア | インドネシア | 約200万人 | インドネシア人 |
1966年 | 中国 | 中国人 | 約2千万人以上 | 中国共産党 |
1968年 | ベトナム | ベトナム人 | 約1万人 | 韓国人 |
1970年〜 | フィリピン | フィリピン人 | 約15万人 | フィリピン人 |
1975年 | カンボジア | カンボジア人 | 約200万人 | カンボジア共産党 |
1975年 | 東ティモール | 東ティモール | 約20万人 | インドネシア人 |
1991年 | 東ティモール | 東ティモール | 約300人 | インドネシア人 |
1998年 | インドネシア | 中国人 | 約千200人 | インドネシア人 |