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歴史や戦前の価値観に関する著書

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記事の内容


この記事では、歴史や戦前の価値観に関して私が出版した本を紹介します。

[現代語訳] 学問のすゝめ


この本は学問のすゝめの現代語訳です。

(ただし翻訳の正しさを保証はできないので、内容が気になった場合は原著をご確認下さい。)

本書より抜粋

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉があります。
これはつまり、天が人間をこの世に生み出すにあたって、すべての人は等しく権利を与えられており、生まれによって身分の上下が定められているわけではないということです。
人は皆、万物の霊長たる存在として、身体と心を用いながらこの世界のあらゆるものを活用し、衣・食・住といった生活に必要なものを満たしながら、自由に、しかも互いに迷惑をかけることなく、それぞれが快適に人生を送れるようにと、自然の摂理がなされているのです。
ところが現実の人間社会を見渡してみると、賢い人もいれば愚かな人もいます。
裕福な人がいる一方で、貧しい人もおり、社会的な地位においても高い人と低い人が存在しています。
このように、まるで天と地ほどの差があるような違いは、一体どのようにして生まれるのでしょうか。
その理由は極めて明白です。
『実語教』という書物の中に、「人は学ばなければ知恵がない。知恵のない者は愚かな人である」とあります。
つまり、賢い人と愚かな人の違いは、学ぶか学ばないか、ただそれだけの違いから生じているのです。
また、世の中には難しい仕事もあれば、比較的簡単な仕事もあります。
一般に、難しい仕事に従事している人は地位の高い人とされ、簡単な仕事に携わる人は地位の低い人と見なされがちです。
心を働かせて行う仕事はたいてい難しく、反対に、手足を使う肉体労働は比較的簡単なものとされています。
したがって、医者、学者、政府の官僚、あるいは大規模な商売を営む商人、多くの使用人を抱える大きな農家などは、社会的に重要な役割を担っている人々であり、その地位も重いものと言えるでしょう。
このように社会的に高い地位に就く人々は、自然と経済的にも豊かになり、他の人々から見れば到底手の届かない存在のように映るかもしれません。
しかし、その違いの根本をたどってみれば、それは生まれつきの差ではなく、単に学問を修めるかどうかという違いにすぎないのです。
西洋にも「天は富や地位を人に与えるのではなく、その努力に応じて与える」ということわざがあります。
要するに、人は生まれた瞬間には、貴いか賤しいか、富んでいるか貧しいかという差はありません。
ただ、学問に励み、知識をしっかりと身につけた者は、やがて地位の高い豊かな人物となり、学ぼうとしない者は、貧しく地位も低いままになってしまうというわけです。

[現代語訳] 福翁自伝


この本は福翁自伝の現代語訳です。

(ただし翻訳の正しさを保証はできないので、内容が気になった場合は原著をご確認下さい。)
原著は明治31年(1898年)に出版されました。
福沢諭吉が63歳ぐらいの時です。
当時の出来事や、その時の福沢諭吉の年齢を知っていると、より本書を楽しめるかと思いますので、簡単に紹介しておきたいと思います。

ペリーの黒船が来航したのは1853年で、福沢諭吉が18歳頃の時です。
福沢諭吉が緒方洪庵の適塾に行ったのは1855年で、福沢諭吉が20歳頃の時です。
慶應義塾の前身が設立されたのは1858年で、福沢諭吉が23歳頃の時です。
咸臨丸が渡米したのは1860年で、福沢諭吉が25歳頃の時です。
明治維新は1867年で、福沢諭吉が32歳頃の時です。
西南戦争は1877年で、福沢諭吉が42歳頃の時です。
日清戦争は1894年で、福沢諭吉が59歳頃の時です。

本書より抜粋
乞食の蚤をとる

ここに、少し気味の悪い話がありますが、せっかくなのでお話ししましょう。
中津には「おチエ」と呼ばれる女の乞食がいました。
自分でそう名乗っていたのか、人からそう呼ばれていたのかは分かりませんが、とにかく「おチエ」と言われていました。
彼女はまるで馬鹿か狂人のようで、とても貧しく、毎日町中を回って物乞いをしていました。
そのおチエは、とにかく汚くて、臭いなんてものではないほどでした。
服はボロボロで、髪はボサボサ。
その髪の中には、シラミがうじゃうじゃいるのがはっきりと見えるほどでした。
母は、天気の良い日には「おチエ、こっちにおいで」と声をかけ、家の庭に呼び入れました。
そして、土間の草の上に座らせ、自分は袖をたくし上げて身支度を整えると、「乞食のシラミ取り」を始めるのです。
私はその手伝いをさせられました。
シラミは次々と取れるので、母はそれを庭石の上に置きます。
しかし、さすがに自分の爪で潰すわけにはいかないので、私を呼んで「この石の上のシラミを、石で潰せ」と言うのです。
私は小さめの石を手に持って構え、母が一匹取って台石の上に置いたら、私が「コツリ」とその石で潰す、という役割でした。
50匹も100匹も取れるだけ取ってしまい、その後、母も私も着物の汚れを払い、糠で手をしっかり洗ってから、おチエにはシラミを取らしてくれたお礼にご飯を渡すのが決まりでした。
母にとっては、これが一種の楽しみだったのでしょうが、私にとってはとても耐えられるものではなく、汚くて仕方がありませんでした。
今でもその光景を思い出すと、胸が悪くなるような気がします。

日本人が太平洋戦争に突入した5つの要因


歴史を学ぶとき、誰もが一度は「なぜ日本人は太平洋戦争を始めたのか?」という疑問を抱くはずです。
しかし、それについて調べてみても、なかなか納得のいく答えに出会うことはできません。
多くの場合、欧米の視点からの解釈や、「軍部が悪かった」といった自虐的な説明です。
もしくは反対に「日本はアジアの開放のために戦った」という勇ましい説明です。
しかし、それらは「なぜ日本は太平洋戦争をしたのか?」という問いに、本質的に答えたことにはなっていません。

現代の日本人は非常に平和的ですし、江戸時代の日本人もまた平和的でした。
江戸時代の260年間、日本は鎖国政策をとり、ほとんど外国と関わることなく、国内で平穏な暮らしを続けてきたことは広く知られています。
では、明治・大正・昭和初期に生きた日本人だけが好戦的だったのでしょうか?
私はそうは思いません。

日本とフィリピンの戦前の歴史


この本では、神戸大学附属図書館がデジタルアーカイブで公開している日本とフィリピンに関連する記事を紹介します。
時代は1910年〜1943年ぐらいの間です。

プロパガンダに関係ない当時の状況がよくわかる一次史料です。

南方紀行 吉川英治著


この本は吉川英治が昭和18年1月に書いた「南方紀行」を少しだけ読みやすくして電子版にしたものです。
本の内容は、吉川英治が東南アジアを20日間ほど旅して、その時に観たことや聞いたことをまとめたものです。
昭和18年1月とは1943年1月で、ミッドウェー海戦の半年後ぐらいなので、戦局としては少し苦しくなっていた時期です。
本ではソロモン海戦のことに触れられているので、その少し後に旅したようです。

少年に語る


この本は、昭和十一年の一月に出版された「少年に語る」という本を基にして復刻しました。
内容は、松岡洋右氏が大連にて行った講演を文字起こししたものです。
ひょっとすると、松岡洋右氏が講演されたのは昭和十年ぐらいだったのかもしれませんね。
昭和十一年とは西暦1936年で、太平洋戦争が始まる1941年の5年前に出版された本ということになります。
本書の内容は非常に素晴らしいのですが、当時の基礎知識がないと、よく理解できないこともあるかと思います。
ですから、まずは時代背景について簡単に説明していきたいと思います。

松岡洋右孝行美談


この本は、戦前、小学校5、6年生の女の子を対象にして書かれた短いコラムです。
主に、松岡洋右氏と母親の二人の関係性について書かれています。
当時の人達の考え方がよくわかる良本です。

國威は内より外へ


この書籍の内容は、昭和4年(西暦1929年)に文部省が出版した本に、新渡戸稲造が書いたものです。

本書より抜粋

生をこの世に亭くる者はまづ以て人として守るべき天地の公道を歩まねばならぬ。
日本の國土に生れた者は、日本の祖先と、國家と、同胞にする対する義務を免れない。
昭和の時代に日本人として生を営む者は、棄つべからざる新舊の重荷を負ふて、遠き道を行くの覚悟を要する。
生きとし生ける者にして空しく生きつつある者はない。
その住む時代と場所に感じ、貴賤、貧富、老若、男女、賢愚共に獨自の使命を持ち、甲の使命を乙に転嫁するを許さぬ。

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